1945 |
8月6日 |
広島に原子爆弾が投下される |
8月7日 |
米国トルーマン大統領、全世界へラジオを通じ広島への原爆投下を発表 |
8月8日 |
大本営調査団、陸軍省災害調査班、技術院調査団が広島入り、市内を調査
日映大阪支社のカメラマン柏田敏雄が広島入り、市内を撮影
日映本社のカメラマン柾木四平が広島入り、市内を撮影 |
8月9日 |
長崎に原子爆弾が投下される |
8月15日 |
終戦 |
8月22日 |
東京帝国大学医学部が陸軍軍医学校、理化学研究所と協力し、調査団の派遣を決定
|
8月 |
日映の伊東寿恵男、相原秀二らが原爆被災記録映画(以後「映画」)を企画 |
9月2日 |
昭和天皇から派遣された永積侍従が広島訪問
日映本社のカメラマンが同行し、市内を撮影
|
9月3日 |
日映で映画の製作が決定 |
9月4日 |
日映で映画製作に向けて準備開始
製作スタッフの相原秀二が、理化学研究所の仁科芳雄へ映画の監修を依頼 |
9月7日 |
製作スタッフの伊東寿恵男が単身、広島・長崎への調査に向かう |
9月9日 |
米国マンハッタン管区調査団が広島入り、市内を調査 |
9月14日 |
文部省の学術研究会議の中に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」設置
学術調査団を広島・長崎へ派遣
映画の製作スタッフの編成案発表 |
9月15日 |
文部省で原爆被災記録映画についての打ち合わせ
日映は「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の補助機関として映画製作を担当 |
9月17日 |
広島が枕崎台風により大きな被害を受ける |
9月19日 |
映画製作の生物班のスタッフが広島へ向けて出発
連合国最高指令官総指令部(GHQ)がプレスコードを発令
原爆に関する報道・出版などが制限 |
9月21日 |
生物班のスタッフが広島に到着 |
9月22日 |
日本ニュース第二百五十七号公開
タイトルは「原子爆弾 広島市の惨害」
永積侍従の広島訪問に同行し、撮影したもの |
9月23日 |
生物班、広島での調査・撮影を本格的に開始 |
9月25日 |
映画製作プロデューサー加納竜一が広島へ向けて出発
途中、京都帝国大学に立ち寄る |
9月26日 |
映画製作の物理班のスタッフが東京を出発し、広島へ向けて出発 |
9月27日 |
映画製作の医学班、土木建築班のスタッフが広島へ向けて出発 |
9月28日 |
物理班のスタッフが広島に到着 |
9月29日 |
医学班、土木建築班のスタッフが広島に到着 |
9月30日 |
広島での映画製作会議
改めて製作スタッフの編成決定 |
10月1日 |
物理班、医学班、広島での調査・撮影を本格的に開始 |
10月4日 |
生物班のスタッフが長崎へ向けて出発 |
10月12日 |
日米合同調査団、広島入り
以後、11月下旬まで医学的な調査を行う |
10月14日 |
米国戦略爆撃調査団物的損害調査部第1班、広島入り
以後、11月26日まで建造物の破壊状況を調査 |
10月16日 |
土木建築班のスタッフが長崎へ向けて出発 |
10月17日 |
製作スタッフが長崎で進駐軍の干渉を受ける |
10月23日 |
物理班、医学班のスタッフが長崎へ向けて出発 |
10月27日 |
製作スタッフが長崎の進駐軍と映画撮影について交渉
撮影許可を得ることができず撮影は中断 |
11月6日 |
東京で映画製作の打ち合わせ
フィルムの現像に入る
撮影再開を求め、仁科芳雄を通じて米国戦略爆撃調査団と交渉 |
11月12日 |
日米合同調査団団長のアシュレイ・オーターソンが日映へ来社し、医学班の撮影フィルムを見る |
11月27日 |
相原秀二、米側が長崎の調査・撮影を許可したことを仁科芳雄から聞く |
11月28日 |
戦略爆撃調査団のヘンリー・テイラーが日映を訪問
相原秀二に10月の長崎での撮影禁止について聞き取りを行う |
11月30日 |
「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の第1回報告会開催
日本人の調査・研究には連合国側の許可が必要と通達される |
12月1日 |
日米合同調査団、米国戦略爆撃調査団、仁科芳雄、日映の関係者による会議
議題はスチール写真の現像などについて |
12月14日 |
医学班のスタッフが東京帝国大学医学部で病理標本を撮影(15日まで) |
12月18日 |
相原秀二がGHQへ撮影したフィルムを持参
映像が未編集であり、映画製作の継続を訴える
映画製作は米国戦略爆撃調査団の委嘱により継続が決定 |
12月22日 |
物理班のスタッフが長崎の撮影のために東京を出発 |
12月24日 |
物理班のスタッフが長崎に到着 |
12月26日 |
物理班、長崎での調査・撮影を本格的に開始 |
1946 |
1月24日 |
物理班、長崎での撮影を終了し、空路で東京へ
途中、広島上空で空撮写真を撮影 |
2月 |
映像の編集作業開始 |
3月 |
映像の編集作業終了
映画の録音作業開始 |
4月 |
映画の録音作業終了 |
4月21日 |
映画「広島・長崎における原子爆弾の影響(英語版)」完成 |
4月30日 |
日映で映画の広島編を試写 |
5月1日 |
日映で映画の長崎編を試写 |
5月4日 |
日比谷公会堂で米国関係者への映画の試写会を開催
映画のネガフィルムが米国へ送られる(20日頃までにすべてのフィルムが米国へ送られる) |
8月1日 |
日本学術会議が「原子爆弾災害調査報告書」(総括編)を刊行 |
12月5日 |
株式会社日本映画社を株式会社日本映画新社へ改組 |
1952 |
8月14日 |
日映の撮影フィルムを朝日ニュースとして初公開 |
1955 |
12月5日 |
仁科記念財団設立
1958年(昭和33年)から米国の科学者へ映画フィルムの所在確認を依頼 |
1965 |
8月5日 |
加納竜一、水野肇著「ヒロシマ二十年 原爆記録映画製作者の証言」出版 |
1967 |
5月17日 |
米国に映画フィルムが保管されていることが報道される |
6月28日 |
被爆後の調査に参加した科学者たちが、映画フィルムの保存や利用に関して文部大臣へ要望書を提出 |
8月 |
映画フィルムの複製が日本へ返還されることが決まる |
8月5日 |
加納竜一、水野肇著「幻の原爆フィルム 原爆記録映画製作者の証言」出版 |
9月2日 |
「原爆記録映画制作者の集い」発足 |
11月9日 |
映画フィルムの原版35mmから16mmに複製されたものが米国から文部省へ返還される |
12月4日 |
文部省で返還された映画の試写会開催
当時の映画製作関係者も出席し公開について意見交換 |
12月16日 |
「原爆記録映画の保管と利用に関する会議」の第1回会議開催 |
1968 |
1月20日 |
「原爆記録映画の保管と利用に関する会議」の第2回会議開催
人権に配慮して一部を編集し公開する事と、日本語版を作成する事を決定 |
4月13日 |
映画の日本語版完成(約152分)人権に配慮して映像の一部がカットされる |
4月20日 |
広島市の見真講堂で映画の試写会開催 |
4月22日 |
「原爆映画制作者の集い」が文部省へ映画の全面公開を求める |
5月2日 |
広島市公会堂で映画を一般公開(4日にも公開) |
6月6日 |
映画の全面公開を求め、「原爆記録映画全面公開推進会議」結成 |
10月24日 |
原爆記録映画全面公開推進会議が文部大臣へ映画の全面公開を求める |
1969 |
|
日映撮影の映像を一部使用して米国コロンビア大学が製作した映画「広島、長崎−1945年8月」が米国で公開される |
1970 |
3月18日 |
映画「広島、長崎−1945年8月」が日本で全国放送される |
4月28日 |
広島市が日映撮影の映像を使用して原爆被災記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」の製作を決定 |
5月19日 |
広島原爆映画製作委員会発足 |
6月12日 |
映画「ヒロシマ・原爆の記録」の撮影開始 |
8月1日 |
映画「ヒロシマ・原爆の記録」完成
3日に平和記念館で特別試写会開催 |
8月6日 |
映画「ヒロシマ・原爆の記録」が広島市公会堂で一般公開される |
9月25日 |
映画「ヒロシマ・原爆の記録」の英語版完成 |
1973 |
5月9日 |
米国陸軍病理学研究所から病理標本、カルテ、写真などが返還される
(映画製作のスチール写真担当であった菊池俊吉、林重男が撮影した写真を含む) |
8月6日 |
仁科記念財団編「原子爆弾 広島・長崎の写真と記録」が刊行される |
1980 |
7月 |
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が呼びかけた 「10フィート映画運動」が始まる |
1982 |
1月30日 |
「10フィート映画運動」で米国立公文書館から購入した映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」が広島市の見真講堂で一般公開される |
1983 |
11月1日 |
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が「平和博物館を創る会」に名称変更 |
1989 |
4月11日 |
広島市が新たに製作する原爆被災記録映画の骨子が発表される
原爆映画製作委員会が監修し、日本映画新社が撮影 |
6月6日 |
新たな原爆被災記録映画「ヒロシマ・母たちの祈り」の撮影開始 |
1990 |
3月31日 |
映画「ヒロシマ・母たちの祈り」完成 |
1994 |
9月29日 |
平和博物館を創る会映画委員会が、映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の日本語版を製作するため、全国で募金活動を行う |
1995 |
|
平和博物館を創る会映画委員会が、映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の日本語版製作を開始 |
1996 |
3月 |
財団法人広島平和文化センターが、日映撮影フィルムをもとに「焦土のカルテ」を製作 |
8月 |
平和博物館を創る会映画委員会が、映画「広島・長崎における原子爆弾の影響/日本語版」を完成 |
2005 |
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被曝60年を機に原爆記録フィルムのハイビジョン化プロジェクトが始まる
日本映画新社が所有する未編集の原爆記録フィルムを日本映画新社と中国放送の共同出資によりハイビジョン化 |
2009 |
4月 |
日本映画新社 解散
原爆関連の全ての映像が日映映像に継承される |
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広島市映像文化ライブラリー、東京国立近代美術館フィルムセンター、日映映像の共同プロジェクトとして、映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の完全版(164分)35mmフィルムを米国公文書館より複製入手し日本語字幕版35mmフィルムを製作
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2010 |
8月 |
日映映像が、映画「広島・長崎における原子爆弾の影響(完全版)」をDVD商品化 |